熟成した魚はおいしい。それは多くの方が感じています。けれど、熟成のあいだに魚の中で実際に何が起きているのかは、意外と知られていません。難しそうに見えて、仕組みそのものは案外すっきりしています。旨味の正体を二つに分けて眺めるだけで、なぜ寝かせると旨くなり、寝かせすぎると味が崩れるのかが、順に腑に落ちていきます。
この記事でわかること
- 熟成とは、魚の成分と酵素の働きで旨味を引き出す仕事だということ
- 旨味の柱が二つあること。イノシン酸(核酸系)と遊離アミノ酸(アミノ酸系)
- ATPからイノシン酸が生まれ、寝かせすぎるとヒポキサンチンへ進んで苦味に向かう仕組み
- 酵素がタンパク質を分解し、グルタミン酸などの遊離アミノ酸が増える流れ
- 血抜き・適正な締め・低温での真空保管という三つの大前提の意味
- 旨味と食感が重なる頃合いを見極めるという考え方
熟成とは、旨味を引き出す仕事
熟成とは、魚が本来持っている成分と酵素の働きを生かし、イノシン酸や遊離アミノ酸(グルタミン酸など)といった旨味を、できるだけ大きく引き出すことを指します。何かを外から加えるのではありません。魚がもともと備えている力を、時間と温度で整えていく仕事です。
ですから熟成は、足し算というより、引き出す作業に近いといえます。素材が良いほど、引き出せる旨味の幅も広がります。
熟成の三つの大前提
旨味を引き出す前に、整えておきたい土台があります。ここが崩れると、熟成は「傷み」の側へ近づいてしまいます。江戸前のカウンターでも、津本式の考え方を取り入れる作り手でも、まず押さえるのは次の三つです。
- 血を抜く血中のヘモグロビンは酸化して臭みのもとになります。ていねいな血抜きが、透明感のある味を守ります。
- やさしく締める魚に余計なストレスを与えない締め方をすると、のちに旨味へ変わるATPが多く残ります。
- 低温で真空保管二度前後の低温と、真空に近い状態は、酸化と腐敗を抑え、変化をゆっくり進めます。
一つ目の旨味、イノシン酸
魚が持つATPという物質は、死後、段階を追ってイノシン酸へと変わっていきます。イノシン酸は鰹節のだしでも知られる、核酸系の旨味です。締めや血抜きでATPを多く残せるほど、生まれるイノシン酸も増えていきます。
ただし、ここには折り返しがあります。寝かせすぎるとイノシン酸はさらに分解が進み、イノシンを経てヒポキサンチンへと変わります。ヒポキサンチンが増えると、旨味だったものが苦味やえぐみの側へ傾きます。
二つ目の旨味、遊離アミノ酸
もう一つの柱が、遊離アミノ酸です。魚が本来持つ分解酵素が、タンパク質を少しずつ分解していきます。タンパク質はペプチドを経て、グルタミン酸などの遊離アミノ酸へとほどけていきます。これがアミノ酸系の旨味で、昆布のだしと同じ系統です。
面白いのは、核酸系のイノシン酸と、アミノ酸系のグルタミン酸が重なると、旨味が互いを引き立て合うことです。二つがそろった状態は、どちらか一方だけのときより、ずっと豊かに感じられます。
こちらにも注意点があります。分解が進みすぎると、身のまとまりや食感が落ちていきます。旨味は増えても、口当たりが崩れてしまうのです。
見極めるのは、二つの重なり
つまり、めざす頂点は一つではありません。イノシン酸が最も多い状態と、ほどよい食感を保ったまま遊離アミノ酸が増えた状態。その二つが重なるところを狙います。だからこそ、熟成はタイミングの仕事だといわれます。
| 熟成の進み | 起きていること | 味わいの傾向 |
|---|---|---|
| 浅い | イノシン酸はこれから。遊離アミノ酸も少ない | すっきり。旨味はおとなしい |
| 頃合い | イノシン酸が高く、遊離アミノ酸も増える | 旨味が重なり、食感も残る |
| 深すぎ | イノシン酸はヒポキサンチンへ。身もゆるむ | 苦味やえぐみが出て、食感が落ちる |
最適な期間と温度は、魚種や状態によって変わります。白身と青魚、脂ののり、身の厚み。同じ日数でも同じ結果にはなりません。ですから作り手は、魚ごとに見極めます。
魚で変わる、熟成の向き
同じ熟成でも、向き不向きや頃合いは魚によって変わります。ここが、作り手の腕と好みが出るところです。大まかな傾向として、次のように分けて考えると勘所がつかみやすくなります。
| 魚のタイプ | 熟成との相性 | 頃合い |
|---|---|---|
| 白身(鯛・平目) | 旨味が乗りやすい | 数日〜長めも |
| 赤身の大型魚(まぐろ) | 寝かせ・漬けで奥行き | 状態で幅 |
| 光り物(コハダ・鯵・鰯) | 締めが中心・早めが向く | 短め |
| 貝・烏賊 | 食感が身上・熟成は控えめ | 短め |
光り物は、鮮度と締めの見極めが味の要になります。長く寝かせるより、良い状態のうちに握る方が向くことが多いようです。反対に、白身や赤身の大型魚は、ていねいに寝かせることで旨味の奥行きが増しやすい魚です。烏賊のように、少し寝かせて甘みが出るものもあります。とはいえ日数で割り切れるものではなく、その日の身の状態を見て決めるのが基本になります。
カウンターの熟成という考え方
近年は、津本式と呼ばれる血抜きと保存の技術が広まり、熟成の精度を支えています。ていねいに血を抜き、低温で管理することで、魚種ごとに狙った頃合いへ寝かせやすくなりました。
東京・奥赤坂の八席のカウンター、鮨 淡師でも、江戸前の古典的な仕事に、こうしたていねいな熟成を合わせています。魚種ごとに期間と温度を見極めながら、一貫ずつ、その日の頃合いを握ります。
熟成は派手な技ではありません。魚の力を信じて、余計なことをせず、頃合いを待つ。その静かな見極めが、一貫の旨味の奥行きになって表れます。
よくあるご質問
熟成させれば、どんな魚でも旨くなりますか?
一概にはいえません。イノシン酸には頂点があり、過ぎると苦味へ向かいます。魚種や状態によって頃合いも変わるため、寝かせるほど良いというわけではありません。
熟成と、傷みかけは何が違うのですか?
大きく違います。熟成は、血抜きと低温、真空に近い保管で、酸化と腐敗を抑えた管理のもとで進める変化です。土台の管理がないまま置いたものは、熟成ではなく傷みに近づきます。
どのくらい寝かせるのが良いのですか?
魚種や脂ののり、身の厚みで変わります。白身は比較的長め、青魚は短めの傾向があるといわれますが、日数だけで決められるものではありません。作り手が状態を見て判断します。
家庭でも熟成はできますか?
できないとはいいませんが、温度管理と衛生の見極めが難しい部分です。低温を保つこと、清潔に扱うこと、頃合いを見誤らないこと。この三つがそろわないと、旨味より傷みが先に立ちます。
ガイドから、カウンターへ
奥赤坂の八席のカウンターで、味わう。
江戸前の仕事に、ていねいな熟成を。一貫ずつ、その日の最良を握ります。海外のお客様には英語でご案内します。
鮨 淡師で予約する The Tokyo Sushi Guide を見る
